自然が先生。

本質的、普遍的な感性を育てる共育の場
この数年の情報化社会によって、世の中が必要とするスキルや知識は一昔前とは比べ物にならないくらい変化しました。
我々が子どもの頃はまだ学習をして学歴を身につけばそれなりに企業に就職出来て中流家庭を持ててという安定という枠組がありました。学歴がなくても、経済が安定していて様々なチャンスがあり、物価もそこまで高騰せず仕事をしていなくても社会的なセーフティネットがある、そんな安心感がありました。
しかし、産業や暮らしのIT化により効率化、自動化され今必要とされるスキルも5年後、10年後に必要とされるか分からないような状況にあります。
そんな変化の激しい時代にあって、我々大人は果たして子どもたちにどのような機会を作っていけば良いのでしょうか。
労働の型が変化し生活様式が変化し、ありとあらゆる価値観、社会規範が変貌する中、一人一人の人生の豊かさ、そして幸せを感じられる人生をどのように作っていくか、どうやってそれを考えられる人たちを、またそのコミュニティを形成するか。
里山楽校ふえっこは、より普遍的で本質的な自然界の中にその法則と可能性を見出します。
人生は合理的、効率的ではない
そもそも自分の人生をどう生きるかを考える上で答えのようなものはありません。
考え方、言う事はどの時代も変わりますし、変わって行って良いものだと思います。しかし、便利な社会生活になっていく過程で、より合理的に物事が進み、仕事も効率化していき、自分の人生でさえも何か合理性や効率性で築けるような気がしているのではないかと、現代社会を見ていると思う時があります。
里山楽校では、不便な環境をあえて設定します。
トイレは遠いですし、水も川まで汲みに行きます。活動拠点も古びたトタンだけの倉庫で冬は寒いです。
しかし、その中で子ども達は自ら火を起こし暖をとったり、体を動かして温めたり、ここでの活動を通して様々なことを身に付けていきます。
そして、それこそが10歳までの子ども達に必要な経験であり、多様な自然界で活動する術を身に付けながら脳の発達に伴う器=体と感性を作っていくのだと考えています。
また、社会にどっぷり浸かっていない子どもの時期だからこそ、社会の枠組みを超えて魂や本質を感じられる環境で遊び、育っていくことの重要性が大きいのではないでしょうか。
考えたこと、疑問に思うこと、を仲間と話し合い実施する中で、悩んだり迷ったり気付いたり考え方を広げたりして自分の世界を成長させていくのです。

自然が先生。
ようちえん事業を始めとする共育事業に取り組んでから、ここでしか出来ないこと、また子どもたちにとってここに来る意味は何なのかを考えるようになりました。
都市部には都市部の良い部分があり、地方の義務教育も現場の先生たちのお話を聞いていると、素晴らしい取り組みをされておられる所が多いです。
そんな中、農家の仲間たちで、里山や畑を管理して子どもたちを預かる意味はどこにあるのか。
年々、増えてくる問い合わせや、子育て世代の方々からのご要望をお聞きしていると少し整理することが出来ます。
それは、人工的でない自然そのものがここにある、ということです。
人工的な都市や、街では、人が快適に暮らしていくために”無駄”を排除していきます。
そして、大人や子たちが楽しそう、やってみたい、これ欲しい!となるような心理的な誘惑や、購買意欲を駆り立てるような仕掛けがたくさんあります。
街自体が暮らしを営む場所ではなく、マーケティングがしっかり施されたビジネス化しているところも多々見受けられます。
子どもたちは欲しいものたくさんあるし、何もしなくても楽しいこといっぱいなのです。
そういう意味では、社会からの思惑が一切入っていないありのままの自然界がここにはあり、遊びも自分で考え、自ら決めて生きていかなければならないのが自然豊かな里山だと言えます。
自然の中での遊びは、何でこんな形をしているの?なんでここにあるの?と言った存在との出会いの宝庫です。
変なもの、綺麗な言い方をすれば多様な存在にたくさん出会うということです。
それが綺麗でも、ヘンテコでも、気持ち良いものでも、気持ち悪いものでも、様々な感触と共に子どもたちは成長していきます。
そうやって、この世界が実に様々な要素で成り立っていることを肌感覚で知っていきます。
ありのままの世界を、子どもひとり一人の感性で捉えていくことができる。
また、近年では丹波市のような地方においても、不登校の問題は大きくなっています。
義務教育の現場に居る教員さんたちは毎年やることが増える上に、義務教育を受けられない子どもたちへのケアも求められています。
現場の先生たちだけでそうした問題を解決するのではなく、地域社会も一丸となって居場所を作っていく取り組みを始めたいと思います。

里山楽校ってどんなところ?
自由であることと、幸せであることは異なる
立ち上げから1年。サドベリースクールのイメージが先行し、何もかもを自由で見守るアプローチに執着した考えの親御さん、お子さんと出会いました。
その結果、少しでも不自由や、自分がやりたくないことが発生すると、まるで絶望かのように不幸を主張する子どもたちも出てきました。
中心のリーダーである20代のスタッフたちに問いかけたのは、その発想自体が貧しく、自由に縛られてない?ってことです。
誰でも自由な部分と、不自由な部分はあります。
だけど、不自由な部分に目を向けて、しかも不平不満を言っていたら、人生の大半が幸せを感じられなくなると思います。
里山楽校は宣言します。
「どのくらい自由であるかは、人生の幸福度に大した影響はない」、と。
自由信仰のような方がおられますが、自由かどうかが我々が生きて行く上で大きな問題ではないとするならば、自由かどうかなんて本当に意味はありません。
では、里山楽校は自由がないのか。
勉強のカリキュラム以外は活動である「遊び」があります。
遊びは自分たちで考え、話し合い、周りと進めていく活動です。
自由すぎるくらい、自由なんじゃないでしょうか。
楽校の役割
子どもの感性が定着する年齢が9、10歳くらいだと言われています。
里山ようちえんで育った子どもたちが自然の中で伸ばした非認知能力が定着するのに、最低でも10歳くらいまで里山での遊びに帰って来れる場所を用意しておきたいと思ったことがこの楽校を始めるきっかけとなりました。
※非認知能力については、里山ようちえんふえっこのページを参照
小学校に行くためにどんな幼児教育を行うか、ではなくどんな幼児期を過ごしどんな個性が育っているかの上に楽校ではそれぞれの個性をどう伸ばしていけるか、伸ばせる環境を作っていけるかを共に育ちながら取り組んでいきます。
つまり、ここでは子ども達自身が主体的となって楽校という場所を、ハード面からソフト面まで作り上げていくことで、自分が社会参画していくことを目的としています。
これまでの教育が担ってきたこと。
まず、既存教育が担ってきた教育機関の役割として主に2つの側面があります。
一つ目は、専門的な知識やスキルを学ぶ。(認知能力)
二つ目は、異なる生い立ち、バックボーンの人たちと同じ場所で過ごして多様な価値観を学ぶ。(非認知能力)
里山楽校では、主に二つ目の数値では測れない非認知能力が育つ環境だけに重心をおいていきます。
認知能力に関しては、塾やインターネットなどを活用し、それぞれが自主的に学ぶことで十分今の時代では追いつけると考えます。
特にコミュニケーション能力が高まってくる年齢において、自然の中で遊ぶだけでなく、多様な人と関り、価値観を学ぶ役割をより充実させた居場所づくりを事業として行っていきます。
10歳までの子どもさんだけでなく、幅広い年齢層が様々な形で関われ、相互に学び合える環境を整えていくつもりですので、異年齢、異世代での交流は社会へ出ていくときにそのまま子どもたちの生きる力となって人間関係を広げていくことに繋がっていくと考えています。
里山楽校コンセプト
「自然が先生。子ども達とサポーターで築く遊びの楽校。」
・自由:本質、魂、ありのままの自分を全うする
人間は不自由です。肉体と言う物質界に生を受けて、この地球という制限の中で、空気のあるところしか動けません。食べないと健康は維持できない人が大半ですし、水分はもっと必要です。また、社会においては人間が集団化する中で様々な心配事や、ルールなどが存在します。
そうです。我々は、不自由を体験するためにこの世界に生まれてきたのかもしれません。
その中で人は自由を体感するのはどんな時でしょうか。
私は思います。物質的に制限があり、不自由だからこそ、精神的な「自由」という充足感を感じられるのではないかと。
つまり「自由」とは、環境や設定のことではなく、自ら生み出し到達する精神世界なのだと考えます。
里山楽校を始めてし、自由について様々な議論がなされてきました。ひとつ間違えれば、わがままを許容することにもなり、また誰とも関わらない放置した状態にもなってしまいます。
一人孤独ではなく、友だちや誰かと一緒に何かを創り上げる、こうした経験を繰り返し繰り返し体験することで様々な不自由を体験し、人とのつながり方、皆異なることを理解していくこと、世界を理解することに繋がるのだと考えます。
自由に遊ぶとは、遊べる余白時間が多く、人工的に設計されたおもちゃが少ないという意味であって、自分で遊びを作りだす、人間関係を構築することから逃げないことが重要であり、楽校というコミュニティ・集団の一員である責任はついてきます。それが分からない場合は、まずはそれを理解して頂くことから始めます。
また、既存教育と比べるとカリキュラムなどの学科課程が無い自由な状況というは、自分で自分の事を知り、考え、決めていくというある種とても厳しい環境だということです。
義務教育では、学校に行きさえすれば同世代のお子さんも多く友達は増える可能性が高いでしょうし、学年も上がり、成績で評価され、自分で考えなくても選択肢を絞って用意してくれます。
そう考えると、目先は自由のない方が「楽」なことが多いのです。
決められたレールのない、ある種自由な選択肢の中でお子様を育てるということは、子どもさんの主体性を含めた存在自体を信じることが出来なければ難しいことです。
入楽希望者の中には学習面で読み書きそろばんは楽校とは別で塾に通わせているご家庭もおられます。義務教育と併用して来られるお子さんもおられます。何をどのように考えて動くかは、それぞれのお子さんの自由ですが、お子さんが考える、またご家庭で考えられていることと向き合いながら、楽校での役割を作っていけたらと思っています。
また、フィールドにおいても、特に里山ようちえん卒園者でない子どもさんにとっては理解できない危険が多くあります。里山ようちえん同様、自然の中で遊びを通して危機管理能力などを身に着けられるように、必要以上にリスクを除いていません。細く歩きにくい土の道は多いですし、遊び場の近くには川や山と言った色んな危険があるリアルな生き物のいる世界が広がっています。
見守りスタッフは研修も積み、命に繋がるような怪我をさせないように声掛けを行いますが、そうしたリスクが存在していることを子どもたちと話し合い理解して頂く必要があります。
・社会:自分たちがどう参画しどんな世の中を作るか、安心できる場所、多様なコミュニティ
二つ目の特徴は、異年齢で構成された多様なコミュニティであることです。
昨今、多様性とよく言われますが、人のことを知る、他人を理解する土台を築くことがとても重視されている現代社会において、楽校では同じ年だけのコミュニティでは限界があると考えています。
一般の学校でも卒業し、一歩学校の外へ出たら基本的に異年齢、異世代の方々との交流、またそうした違う価値観の人たちから気づきや学びをたくさん得ることが多いわけで、異年齢での学びの場が実社会に近いのではないかと考えています。
異年齢、異なるバックボーンの人々との交流を通して自分の居場所を見つけ、他人との信頼関係を築いていくことで、安心して自分のことを話したり、自己表現できるコミュニティを形成していきます。
そして、身近な友だちのコミュニティ作りを日々行っていくと同時に、里山マルシェや多様な社会の大人たちと関わるきっかけをたくさん設けていくことで、自然と社会参画の仕方を考えていく環境を用意していく必要があるのです。


楽校の運営方針3柱
具体的な運営の方針です。
・自由な遊び
自然の中で四季を感じ、五感を使って子どもたちが主体的に遊べる環境を保全します。
施設環境は拠点となる個室が3つ(フリーハウス、共有レストラン、図書館)と、隣接する森のゾーン、里山広場、その他田んぼ、畑となります。
フィールドに目が行き届かないので、慣れない内はある程度固まって散歩などをしながらフィールドに慣れて行ってもらいます。
また自由というと放任と誤解をされがちですが、お子さんを里山に放り出して勝手に遊んで、というやり方ではなく、まずこの楽校という場がどんな場所なのか、どんな人たちがいるのか、どんな友達がいるのか、里山はどんな場所なのか、どんな生き物がいるのか、そうした場所の理解が深まるまで勝手にできる範囲は広げません。
里山楽校は単なる山、川ではなく、コミュニティです。コミュニティの一員であるという自覚が芽生えるまでは単独行動を禁止しています。
子どもさんひとり一人の状態や生活を把握していくと同時に、子どもたち同士が互いに学び合える、声をかけあえる、自らが楽校の一員として動ける自覚が生まれると同時に、自由に出来る範囲が広がっていくのではないかと考えています。
・学び:イケてる大人の話を聞こう
これも、あくまで前提が同じではありますが、子どもたちが自分の興味関心を探求するまでには、まず場所や人間関係に安心していること、色んな遊びを繰り返しその中で自分が好きなことが見つかることなどが最低条件としてあると思われます。
そのうえで、子どもたちが自ら好きなことが見つかれば、それを探求したり、目標・夢を定めてそれに向かった学習を応援します。
特にこちらからカリキュラムなどを用意することは考えておりませんが、子どもさんの興味関心に合った講師の方をお呼びしたり、体験学習が出来る機会を作っていきます。


・実社会との繋がり:里山マルシェ、自分たちが企画する修学旅行
楽校が小さな社会であるというお話をしましたが、楽校の外の社会とも自由に繋がる機会を見つけていきます。
楽校を運営していくためのチャリティーイベントなどを子どもたちと共に考え、一般の方との交流が自然に行われるような機会を作っていきます。
また、地域社会の中で協力して頂ける方が居れば専門的なスキルを体験できる機会を子どもたちと話し合って取り入れていきます。

活動詳細
活動日:火曜日ー金曜日
*金曜日の運営は、朝から丸一日図書館になります。
一日の流れ
9:00 あそびの時間
※お子さんが慣れるまでは一緒に散歩する、一緒に集まって遊びを考えるなど、自由に遊べるまで段階を踏みます。
11:00 みんなでお昼ごはん
リフレーミング(ディスカッションゲーム) または、みんなでミーティング
13:30 自主時間
15:00 おわり
※慣れてくれば楽校の活動時間以降も残って遊んでいただいて構いません。

運営について
里山楽校は、1年間完全ドネーションにより運営を行います。少なくとも2022年度は、通われているお子さんやまたそのご家庭に運営費用を請求しておりません(イケてる大人の授業に必要な物資、遠足の交通費、修学旅行の旅費は各ご家庭の負担)
最低でも1年間は皆様からご支援、具体的には寄付、寄贈によって運営していきます。その理由や使いみちを <こちら>に書き記しています。
このような場所が地域に存在することを応援いただきたく、是非お読みいただきご支援いただけることをお願い申し上げます。
プロジェクトリーダー中山貴美子の紹介

私は、清流の国と呼ばれる岐阜で生まれ育ちました。
生まれた時からNY育ちの宇多田ヒカルの歌が流れてて、パソコンが家にあって、百円でチョコが買える、いわゆるグローバルな時代に生まれました。
と同時に、地元飛騨高山の匠の技に触れたり、自然の中で近所の子供たちと遊ぶ豊かなローカルの機会にも恵まれていました。
そんな中、私は一つのジレンマのようなものを抱えていました。
テレビで見た貧しい子供たちが映るユニセフのCM。学校の授業で習う地球温暖化。
豊かで平和な暮らしの外には、貧しい子供たちと疲弊する地球環境が存在しているということ。
でも、それを知ってしまったところで私にはどうすることもできない。
そんな無力感と、何かを踏み台にしているという後ろめたさ、それでもこの社会で生きていくしかないのだというあきらめのようなものを感じていました。
そして、その自覚と、年齢と共にどんどん型にはめられていく教育。
みんなが一様の勉強を、しかもかなりの時間と労力を費やして同じペースですることに対して、疑問を抱きながらも解決策が全く見当たらない。
そんな時、たまたま手に取ったフィンランドの教育について書かれた本で私は「教育」ってこんなにも自由で多様でいいんだということを知ります。
そして、日本の教育を変えてやるという決意で京都大学の教育学部に進み、教育における歴史や教育哲学を学びます。
また、アルバイトとして家庭教師や、塾の講師、未就学児の見守り保育士として子どもに関わる機会を得ます。
そんな中、様々な人に出会い、様々な人の考え方に触れ、少しずつ私の教育に対する態度は変わっていきます。
それは、一人で頑張らなくてもいい。無理に全部変えようとしなくていい。
だってそれぞれの場所で、立場でこんなにも子どもたちのために自分を奮い立たせている人がいるのだから。
もちろん、それぞれ考え方の違いややり方の違いはあります。
でも、それを批判するのではなく、違いを面白がっていけたらと思います。(努力目標)
同時に、京都の国際学生寮に住んだことをきっかけに、一つの村という自給自足のコミュニティの在り方に可能性を見出していきます。
そして大学卒業間近、大学を休学し農業を中心としたコミュニティを回ろうと決意した矢先に竹岡農園と出会いました。
ここに初めて来た日のときのことを今でも覚えています。
人間がいることを自然が歓迎してくれるような、存在を許してくれているようなそんな感覚でした。
この場所にもっと居たいと思ったのは、素直でシンプルすぎる決断でした。
そして、この農園で一年近くを過ごした今、私はこの場所をもっと多くの人に、特に子どもたちに知ってほしいという思いが強くあります。
自然への感性を研ぎ澄ませながら、人や自然のつながりを大事にしていくこと。
その喜びを子どもたちと分かち合いたい。
そして、その感覚はきっと子どもたちの方が知っている。
だから、ぜひ一度この里山に遊びに来てほしいです。(子ども心を忘れない大人も大歓迎)文化や国境を越えて、この里山という地に集まる人々が互いに刺激を受け、学び合えたらいいな、そんな思いで「里山楽校」をスタートします。
里山楽校 プロジェクトリーダー 中山貴美子