原点の野菜作り

里山に生息している草木は、互いに譲り合い、補い合い、支えあいながら育っていき、そしてその役割を終えると次の豊かさのために死んでいく。
自然における生き死にの循環は、自己犠牲ではなく、全体に貢献する活動によってその美しさを維持しているように思います。

そんな生き方や暮らし方に憧れて、まずは自分たちで野菜を育ててみることからこの農場は始まりました。
種を蒔き、発芽し、根や葉や茎を育て、実を収穫する、この一連の命の循環や育ちに喜びを感じられる心で居たい、そんな日々を過ごしているうちに、栽培面積や育てる野菜の量が少しずつ増えてきました。

小さな中山間の畑で栽培しているので、大量生産とはいきませんが、自分たちで食べるには多すぎるくらいの元気な野菜たちをお客様にお裾分けしています。
設立当初お一人だった野菜セットのお客様が、一年一年とじわじわと増えて今では出荷するには足らない時期もございます。

「美味しい」ということ

竹岡農場を始めたきっかけは、学生の頃笛路村の農家さんから頂いた黒枝豆を周りの人たちと食べて、みんなが笑顔になった経験があったからです。

自然で美味しい野菜は人を幸せにするのだ、と感じました。
そして、研修に行った栃木県の農家が育てる無農薬・無化学肥料の野菜たちがどれも規格外に美味しくて、無農薬ってすごいんだと思いました。
現在も栽培において農薬・化学肥料を使わないというルールは研修先の影響を大きく受けています。
自然界の在り方に基づいて、農薬や化学肥料に頼らず野菜の生命力で育つと美味しいと思ってもらえる野菜が育つ。
就農当初はそんなことを考えていました。

そんな自分にさらなる「美味しい」という体験を教えてくれたのは結婚した妻です。

新婚当時、お客様に出すには微妙だなと思うような状態の野菜たちも、妻はめちゃくちゃ美味しいと言って食べて喜んでくれました。
収穫が遅れたもの、逆に早く収穫しすぎた幼いもの、害虫に食われすぎて味を吸われたようなもの、規格外品と呼ばれる商品にできないいろんな野菜たちを料理し、どれも美味しいと言って感動してくれました。

そして、気がつきました。

それまで野菜の味が薄いとか、旨味が足りないとかおこがましく評価していた状態の野菜も、妻と一緒に食べているとどれもすごく美味しかったのです。
そして美味しくて、有難いという気持ちがさらに野菜作りへの意欲を駆り立てます。
そうやってだんだんと野菜作りが好きになって、コツを掴み始めて年々野菜の状態や出来が良くなっていきました。

身近な人との美味しいという体験が、自分の向上心まで生んでくれたのです。

露地で育つ厳しい自然環境下の無農薬野菜は、甘いもの、旨いものばかりではありません。
時期や天候によっては苦いもの、渋いもの、色んな味があります。
そういう自然界の本物の味を通して、隣の人やお客様が一緒に召し上がっている方と共感し繋がる体験をお届けしたい、そしてそれこそが生きる「喜び」の体験であると考えています。

農業と自然環境

露地栽培のリスクは大きく3つあります。それは、天候、獣害、病害虫です。

天候は、台風などの災害クラスのものだけではなく、近年では雨が続きすぎるとか晴れないとか、逆に晴れ続けて畑の水分が無くなってしまうこともありますし、冬になっても暑い日があるとか春を超えても寒いなどの冷害も含まれます。

最近でも、収穫期に入る時期に長雨が続き一番大事な時期に病気にかかったため半分以上がそのままでは出荷できなくなりました。

次に獣害ですが、文字通りシカやイノシシなどによる畑や野菜の被害です。
笛路地区においては里山の山際を全て2m超えの柵で獣から作物を守っているため柵の無い地区に比べては非常に被害が少なくて済んでいます。シカやイノシシは獣害の中でも一番大きな被害を産むのでそれらを防げるだけでも大きいですが、獣害はシカやイノシシだけではありません。
カラスは、夏野菜などの果菜類を突いたりして遊んだり、傷つけたりします。アライグマやハクビシンなども種をまいた端から畝の上を歩き、まいた種が土から出ていたりもします。ハトは小豆や黒豆の種を掘り起こしますし、モグラに限ってはサツマイモやジャガイモなど美味しい芋類は必ずかじってきます。
また、イノシシやシカも柵をしていれば完璧というわけではなく、水路の土管から入ってきたり柵が少しでも傷もうものなら乗り越えてきたりもします。今年はイノシシが入って、竹岡農園の畑も大きな被害が出てしまいました。

最後に病害虫ですが、繊細な野菜栽培において必ず向き合わなければならない課題です。
気候の影響を受けて病気になってしまうと、本体が弱り害虫にも狙われやすくなりますし、逆に害虫がたかって生命力の弱い野菜から栄養を吸うことでまた本体が弱り病気になりやすくなったりもします。
一つの原因だけで病害虫は生まれませんが、どれか一つを食い止めてやることで野菜が最後まで成長することもあります。その役割を担っているのが農薬なのですが、我々は農薬を使用致しません。

ちなみに、同じように使用していない化学肥料ですが、化学肥料の一般的な役割を例えて言うなら、動物でいうところのホルモン剤のような役割です。
晴れたり、雨が降ったり野菜に必要な陽の光や水分などで身体をしっかり形成して大きくなるところを、化学肥料一発やれば一気に身体がでかくなるようなイメージです。

竹岡農園では病害虫を排除しません。そして、化学肥料などを使用して見た目だけ綺麗で大きくなる野菜を育てることもありません。
その年周りの自然環境で健康的に育った野菜たちが本物であると考えています。
人間でも風を引いたり、身体の調子を崩すことはサインでもあったりするので、畑がバランスを崩したり様々な自然の変化を知らせるものとして自然界にある働きを受け入れています。

仮に害虫が大量発生しても、その分益虫が増え、翌年は元気な野菜が育つこともあるので、自然界の健全な食物連鎖を復活させる環境づくりをどうしていくかの方が目の前の害虫より大きな課題として考えています。

百姓自らの身体と頭を使って工夫し、以上の露地栽培の3つのリスクを毎年乗り越えて、お客様に野菜を出荷させて頂いています。

農業と経済社会

農家の多くは往々にして施設(ビニールハウスなど)を使います。
天候の被害、特に大雨や風などの異常なストレスを避けるために施設栽培の方が人為的なコントロールがききやすいのです。
ハウスなどの施設内でボイラーやストーブを炊いたり、紫外線カットの不織布などを用いて、管理をし、より安定した作物を市場に出す。
これが近代農業が具現化した人間にとって美味しく食べやすい野菜を安定供給するシステムです。
この技術の発展には、農家の非常な苦労と、懸命な努力があります。

しかし、このやり方は本当に農家を、また社会を豊かにしたのでしょうか。
例えば、コストを例に挙げて考えてみます。ビニールハウスを代表する施設栽培の施設や資材のほとんどが、今や外部企業と外部資材に頼らざるを得ない状況であるといえるでしょう。
当たり前のことですが、外部資材の生産コストを自分たちで値決めすることはできません。

経済圏のあらゆる状況によって昨日まで10円だった部品が今日は100円になることもあり得るのです。
仮に生産原価が上がった場合、野菜の値段自体も大きくはね上がってしまいます。
そして、まわりまわってお客様に大きな金銭的負担をお願いしないといけなくなり、それを提供する農家も付加価値を上げなくてはいけなくなるので、設定した価格に納得して頂けるよう説得したり、お客様の気持ちを誘導したりするビジネススキルを磨くのに時間を使わなくてはなりません。

農業従事者、新規就農者の多くの方々も価格競争に巻き込まれないようにそうしたマーケティングを考えるのに膨大な時間を費やしています。

お金を稼いで、稼いだお金でまた値上がりした種や高級資材を買い、機械を買い、従業員を雇い、時間を買って、さらにその支払いのためにものを売って、また稼いで…

これでは農業をしても疲弊し、ゆとりを無くしていく。
そうしたサイクルに入ってしまう農家さんをたくさん見てきましたし、自分も実際に経験したことです。
そうした経済主義の循環が、我々人間が生きていく上で本当に大切な目的なのでしょうか。

もちろん経済主義が悪いとはひとつも思いません。
我々の世代は皆その経済主義の恩恵を受けて大きくなってこられたのだから、心から感謝しています。

ただ、それが行き過ぎると、経済しか見えず、縛られて、余裕を無くし、自分たちが生きるということすら実感できなくなってしまうように感じるのです。

経済は現代の我々が生きていく上で向き合わなければならない現実の一つです。
なので、竹岡農園も完全に経済から切り離された生活をしていません。
経済という便利なシステムがあって今の世の中は回っている。だからその一員である我々も経済と向き合わなければなりません。

【道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である】
と二宮尊徳が言っているように、現実と理想は相互に豊かになっていくものです。

現実的な課題はしっかりと向き合い、しかし貨幣に魂を奪われることなく、人生を設計していける暮らしの方法を竹岡農園の「農」は日々模索していきます。

竹岡農場の目指す「農」~「農」から始まるすべての循環型事業へ~

あるとき、当農園で運営している酵素風呂の開発者の竹内忠司さんとお話していて、
「普通の百姓は野菜を育てる、優秀な百姓は土を育てる、でもその上があるんや。なんか分かるか?」
そう聞かれて、答えられないでいると、
「一番優秀な百姓は人を育てるんや。」
この言葉を聞いて、自分がやっていくべき農業での迷いが消えました。

我々の行っている農業は「売るための野菜を育てる」という産業ではなく、人の身体を作り、「人を育てる野菜」であり人の暮らしに基づいた取り組みなのだという意味を込めて農業ではなく、自分たちの活動を「農」と言うようになったのです。

現代の暮らしは全てが分断されています。
暮らしの中では部屋は区切られ、教育は同じ年齢ごとに詰め込まれ、職は分業化し、農業の生産現場でも種屋、苗屋、農家(生産者)、八百屋(バイヤー)・飲食店など経済合理性を高めるために分かれています。
これは、良いものを安く分かち合うためには非常に効率的なシステムではあると思いますが、それぞれの専門に分かれてしまうことで物事の本質を感じにくい働き方へと繋がっていくように感じています。

農業でも生き物や、土というところで全てが繋がっているのに、お米農家はお米しか作らない、人参農家は人参、ネギ農家はネギと言ったように、一つの分野に特化し専門性に囚われてしまうため、自然界のシンプルで普遍的な一貫性のある循環が断たれているように感じます。

例えば、近年有機農業や、観光農法、自然栽培、さらには自然農など呼び方や細かなルールを気にされる方が非常に多いです。実際現場に足を運び、畑に流れている空気感や野菜が育っている畑を見たら大切にしていることが一発で理解できることも、体感せずに自分の持っている知識や理屈で良い悪いなどと判断してしまうことは非常にもったいないですし、そうやって我々は分断されていることに気づかなければなりません。

我々も様々な農法の農家さんと友人です。
観光農法、自然農法、施設栽培、水耕栽培など色んな手法で作物に携わる生産者さんと知り合いですが、互いにリスペクトしています。
自分たちが何を感じ、何を考えて、どういうプロセスで生産しているかはお話しますが、全く違う手法をされている生産者さんからも学ぶことは非常に多くあります。
むしろ、主義手法が違う生産者さんの方が新しい発想やアイデアを頂けることが多いのです。

そうして、野菜、畑、土や微生物、など自然の中でそれぞれの持ち場で発見したこと、感動したことを持ち寄ってさらに生産者として自らを磨いていく糧としていくことで、自分も他者も豊かになっていくように思うのです。

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