「自然体」とは。

竹岡農園ロゴ黒

「自分」とは自然の分身

 自分とは何なのか。よく分からないまま、成長し、周りを意識し時に競い、豊かで平和な世界を夢見るけど、どうやってそこに行けばいいのか分からないまま、何のために頑張るのか、努力をし続けるのか疑問でした。

 自然の中での体験は我々一人一人を解放してくれます。何を感じ、何を創造し、どこへ向かうか、そこで生まれるもの全て自由であり、全ての存在は他の存在を生かし生かされています。自然の循環の中では誰もが役割を持ち、ユニークで神聖なる存在です。

 自分が何をするべきか、そして何ができるのか、その先にある自分の使命は何なのか、何のために生まれてきたのか、そんなことを気づくために我々は自然と調和していく必要があるのかもしれません。

 自然の分身である我々一人ひとりが自然の姿に返ることで、または自然界と融合していくことで、豊かで、自由で、そして平和な暮らしが待っています。

 そんな思いで、2010年から丹波の笛路村で小さな農園を運営しています。

自然の姿に返り、人間らしく在れる。

 竹岡農園のしごとは、自然な暮らしを楽しむと同時に自然を感じる喜びをお客様と共有させて頂くことです。

 効率性や生産性を重視するオーガニック栽培ではなく、季節の変化、気候の影響を大きく受ける露地での自然栽培(無農薬・無化学肥料栽培)の野菜を育てることを諦めず毎年新たな工夫をし続けているのも、自然の優しさや温かさ、そして時に厳しさを野菜と共に感じることで、生きる喜びが湧いてくるからです。

 “無農薬で、無化学肥料で野菜を育て、お客様に付加価値を感じてほしい”ということではなくて、ただありのままの自然を感じて頂くことが我々にとってお客様へご提供したい「価値」です。

 ですので、決して我々の商品、サービスを販売したいのではなく、関わる人ひとりひとりが、自然を感じ自然に拠り所を求めることで、より自分らしく楽に人生を歩んでいただけることを願っているコミュニティであります。
 つまり、自然を感じたい人が自然を感じられるなら、特段我々の商品、サービスを必要とされなくていい、ということです。

 ではなぜ、このような事業を仲間と共にし続けていられるのか。
それは、自然が大好きな、そして自然の中で安心できる暮らしのアイデアを求めておられる人々の中でも、全員が野菜農家になるわけではなく、皆さんが里山で暮らすわけではないからです。

 持ち場持ち場で、ご自身の暮らしや仕事を全うされながら、生きている中で竹岡農園の暮らしや農を通じて自然を感じる喜びを共有したいと思っておられる方々と、シェアをする。

 そうした発想で、竹岡農園の商品やサービスは生まれてきました。
つまり、農ライフを楽しんでいた百姓が、自分の好きな暮らしを形にしてお客様とシェアをしている事業です。

 我々が丹波の里山に住みつき、居心地のよい暮らしや農を実践して、それを少し切り取ってお客様にお裾分けするという仕事です。

里山の小さな農で循環する竹岡農園の設立者

竹岡正行
略歴
神戸市生まれ
明石高校 卒業
大阪教育大学 人間科学・発達人間福祉学部 卒業
→在学期間中、脳性まひの方の24時間の在宅介護活動に参加。
→差別により家から出られない状況の障がい者宅への在宅訪問活動。
障がい者、またそれを取り巻く社会背景に直面し、人間が自然体になることで障がい者にとっても健全者にも生きやすい世界が広がっているのではないかと感じ農業を志す。

2010年 大学卒業と同時に栃木の無農薬栽培の野菜農家で研修をさせて頂く。
    半年後、地元兵庫に帰り、丹波市の笛路村で独立
     竹岡農園 設立
     無農薬・無化学肥料栽培の野菜の生産・販売事業を開始

2014年 NPO法人 丹のたね設立(以下、丹のたねの過去の事業報告など)

     当初、障がいを持った子どもたちと畑で農作業をしたり、キャンプをするイベント事業を起こす。

2015年 酵素温熱風呂 開設
2016年 里山ようちえん ふえっこ親子クラス 開設
2017年 農家民宿 花乃家 開設

2018年 竹岡農園を法人化
     里山レストラン 開設
2019年 里山ようちえん ふえっこ幼児クラス 開設

①大学生の頃に、脳性麻痺者の在宅介護に入ることで人生の転換期を迎える

 出会い

 私にとって、脳性麻痺者Mさん(以下、Mさん)との出会いは自分の人生を切り開く上で大きな影響を与えました。
 Mさんは、全身の身体障がいをお持ちで、寝たきり車いすで生活されていました。左手の薬指一本だけ自分の意志で動かせる重度の身体障がい者の24時間生活介護はそれまで味わったことのない緊張感と、自分の価値観を揺らされ、物や社会の見方に影響を与えることになります。

 Mさんとの出会いは、大学入学の折、駅前で勧誘をしていた先輩介護者の紹介から始まります。介護や障がい、福祉などあまり興味の無かった私ですが、その先輩介護者の話を聞いていると、その先輩の中に強烈に根付いている人の影を感じました。なんなんだろう、こんなに人の中に入っている人ってどんな人なんだろう、しかもそれが自分が深く関わったことのない障がい者である、と。そんな興味本位でMさんと出会う約束をしてしまいます。

 初めて四条畷にあるMさん宅に行かせて頂いたときは、衝撃でした。寝たきり車いすの周りを取り囲むように、介護者が8人ほど囲んでいます。それは、中心のMさんを守るというより、これから来る敵と真っ向から向かい合う、取って食おうとでも言うようなそんな真剣勝負の学生や大人たちでした。

 その物々しい雰囲気に圧倒されながらも、自分も男なので真剣勝負をしている人たちと向き合う覚悟で一通り自分の自己紹介をします。何を話したか、今では覚えていませんが、私の話を遮ってMさんが何かを言いました。が、しかし言語障がいがあって、Mさんのことを十分理解している人にしか聞き取れません。初対面で、言語障がいというものすら出会ったことのない学生からするといくら必死に言葉を発せられても、諦めそうになります。

 「何とおっしゃっているんですか?」狭い部屋で、10人弱の大人に囲まれて、真ん中の障がい者が顔を歪ませながら何かを言っている。でもそれは、自分には聞き取れない。周りの介護者は理解しているような雰囲気だ。だから、何を言っているのか、私は周りの介護者に聞きました。今でも覚えているくらい濃密で空気が圧縮されているようでした。

 車いすの周りにいた介護者の一人が答えます。「それは、Mさんが言っていることだから、Mさんに聞いてください」と。

 確かに、Mさんが話している。だけど、顔を歪ませて話すのがとてもしんどそうに見える。自分は聞き取れない。でも、話しているのはMさんだ。私は目の前のMさんに聞きます。「何とおっしゃっているのか分からないので、もう一度お願いします」

 このやり取りを50回ほど続けました。
 濃密な空気圧のある狭い部屋で、苦しそうとも必死とも真剣ともとれるMさんの表情を必死に見ながら、何とか聞き取ろうとします。周りの介護者はただそのやり取りを、眺めているだけでした。15分経ったか、20分経ったか、何とか辛うじて聞き取れたのは、

 「お前、介護入らへんか」でした。

 頭の中は、パニックです。介護をやりたいわけではありません。もちろんやりたくないわけでも無かったのですが、介護の経験もないし、第一に障がい者という人生と深く関わったことがありません。何より、言葉さえも聞き取れないのにどうやって身体介護をするのかと思いました。そんな頭の中のぐちゃぐちゃを見透かしたかのように、Mさんは続けてこう言います。もちろん、今回も聞き取れず、何度も聞きなおして私の心の中は申し訳なさでいっぱいとなります。

 「後悔させへんで」

 その言葉は、何度も同じことを繰り返し言わせた罪悪感を飛び越え、底知れない目の前の人間の魅力に対する興味を広げるのに十分でした。

お前は差別する側の立場。

 生活介護に入った私は毎週介護枠に入り、M氏と人間関係を築きながら見様見真似で先輩方の介護を学び、M氏から指摘されることを受けて考え介護に取り入れ、3回生でメイン介護者となりました。当時、介護枠は昼が基本3枠、夜が2枠でメインとサブという役割が存在していました。

 自分の場合、物理的な介護をメインでさせて頂き、サブには精神的な介護が得意な介護者とタッグを組んでいました。当時何を考えているのか、周りに理解されにくいところがあり、自分を素直に出すのが怖かったのです。今ではわかりますが、自分の生活の中に、自分を押し殺す存在が居ると違和感があるものです。そのフォローを精神的介護を得意とする仲間が担ってくれました。

 また介護活動だけでなく、M氏在住の同じ町内で昔の差別により家族だけで障がい者を抱え込んでいるお宅に訪問する在宅訪問活動というのもしていました。家に訪問し、同じ障がい者のM氏のところに来ている介護者だと名乗り、家の掃除などの御用聞きをして、ご近所付き合いをするというものです。

 70歳の母親が50代の息子である障がい者の身体介護をしている光景は一言では言い表せない空気ですのでここで明記はしませんが、私はここで障がい者問題の一つの現実を感じたのだと思います。

 それまでの人生で感じたことのない人との交流、人生観や考え方などに触れてどんどんとのめり込み、大学を2年休学しトータル6年間活動をしていました。学生時代介護者であった仲間や先輩たちは、社会人になっても休日や長期休みの日には介護体制を安定させるために介護枠に入られていました。

 M氏は幼少期、障がい者であるというだけで義務教育から排除され、教育を一切受けていなかったのですが、自分で新聞などで字を覚え深い教養がありました。最終的には、私の母校である教育大学で障がい者問題についての教鞭を取られており、「障がいを武器にする」言葉通り彼にしか見えない視点、経験を社会の役に立てていました。

 そんなM氏との生活介護の中で一つだけ自分が違和感を持っていたのは、どこまで行っても「お前は差別する側の立場や」とおっしゃっていたことです。もちろん、深い信頼関係があるからこそ、そして介護活動を通して障がい者の役に立っているなどという思いあがった気持ちを戒め、障がい者と共に生きていく社会実現のために必要な視点であることは重々承知していました。

 でも、言葉以上に自分とM氏との間には壁がありました。それは自分のキャラや年齢、性格によるものかもしれません。しかし、M氏の傍に居て決して超えられない線引きのようなものを感じていました。今思えば、世代や環境の違いもあるので、それくらいの線引きはあって当然だと思います。しかし、当時の純粋すぎる自分にとってはその立場の壁さえも超えて、通じ合うことができたら本当に素晴らしいと思ってしまったのです。

笛路村で、黒枝豆を頂く。

 父が家を自分で家を建てたいと言っていたのは、何となく覚えていますが、本当に素人が家を建てていました。丹波の山奥で。そこに遊びに行ったときのことです。

 一番近くの村人Tさんが畑に呼んでくださり、パンパンに膨れている黒枝豆を収穫させてくれました。その日初めて出会った人です。父は丹波出身ではありません。たまたま不動産屋に紹介されて土地を購入しただけの繋がりでした。
 そんなどこの誰とも知らない人間を自分の畑に呼びこみ、積極的に関わってくださるT氏を見て、なんだかほっとするなと感じたのが第一印象でした。

 頂いた黒枝豆を大阪に持って帰り、M氏の介護現場で食べると、そこに居た全員が笑顔になったのを今でも覚えています。M氏の表情や眼差し、当時の自分にとって立場や主張を超えて通じ合えたと感じた大きな経験でした。それまで一度も笑った顔を自分が見たことのなかった先輩でさえも、竹岡さん美味しいですね、とこぼれるような笑顔でした。
「美味しい」を共有することはこんなにも幸せであるのだと思い、そこに反差別の運動体では築くのに難しいと感じていた人と人との精神的な繋がりを構築できるような気がしました。

農業への道

 M氏はよく「自分の産まれ育った地域で死にたい」と言っていました。思えば、自分の家で生活すること、街を散歩すること、そして自分の町で死ぬことなど人間として周囲の協力さえあれば当たり前に出来ることが出来ない状況がたくさんあります。これは、障がい者だけではないかもしれません。

 だけど、M氏は最期まで自分の町で暮らしていました。それを可能にしたのは、やはりご家族の考え方、介護者や仲間の存在が大きかったと思います。当時の自分は神戸の実家から大阪のM氏の介護現場まで通っていました。片道1時間半はかかり、電車などのトラブルがあればもっと時間がかかりました。繋がりは大事に出来ますが、これで近所付き合いと言えるでしょうか。
 今後社会人となり、住む場所と働く場所が違えば、もっと本質からずれてしまう。M氏との活動を通して、人間にとって地域で根付いて生きていくことの大切さを感じた私は地域に根付ける農業への道を志します。

②プリズンと噂される過酷な農業研修で甘えた根性を叩き直して頂く

「ここでは地獄を見せる」と言い切った社長

 なんとか大学の卒業が確定し、農業を志すも、当時は今ほど田舎の集落が外部の人間にオープンでもなく、農業を学ぼうと思っても伝手もありませんでした。当時ウェブサイトを運営している農家は非常に少なかったのですが、検索するといくつかの農家が人員や研修を募集していることを知ります。だいたいどこも一週間の住み込み研修というのをされていました。

 最初に伺ったのは、長野県の優良企業です。高原野菜で有名な長野県ですが、地の利を生かした露地栽培で単一の作物を社員が一人一人農場長としてまとまった圃場を任され、社長が営業するというスタイルです。当時の農場長ひとり一人が個性的で生産者としてのプロ意識が高く畑も野菜も非常に均一で美しいものでした。会社も従業員の生活を考えしっかりと付加価値をつけて販売し、農繁期は休める日が少ないけど、冬になるとまとまった休みが2,3か月あるそうです。社長は、地元の担い手を定着させると共に、農業を盛り上げて行きたいと話していました。企業として長期的に事業を育て、地域を守っていこうとされていました。うる覚えですが、人柄も人徳がにじみ出ていたように思います。

 農場長が圃場の畑案内をして下さった折、慣れない道で一般道から体勢を崩して畑の畦に足を踏み入れてしまいました。その時に、プロ意識の高い方だったんでしょう、何も知らない学生あがりの農業を志す若者に大切なことを教えてくれました。「勝手に入るなよ。畑は誰かが管理しているものだから、お前のものじゃない。畑に出入りするときはちゃんと断ってから入るようにしなさい。」プロの生産者になるのに大前提のことを教えて頂いたのだと思います。これは、今でも意識しています。

 とても大切なことを教えて頂いたと同時に、ここでは先輩農場長たちが築き上げてきたその価値観の外では生きずらいことも認識しました。管理している農家の気持ちを考えたら当然大切にすべきことですが、深く考えないと畑が誰のものかという認識になってしまいます。
 自分が管理していたとしても畑は地球のものであり、誰かと自由に共有するものとして考える農家が居たとしても良いのではないかと思いました。人間社会を中心に考えると、人を統率し社会人として常識を身に着けていくことが重要なことです。しかし、経済を中心に人間を中心に構築されてきたシステムで生きているからこそ、自然な在り方を追求したいと思ったのです。自分の中で、農場長の話や価値観は非常によく理解できると同時に、その固定観念を無くして「0」から世界を捉えなおしていきたいという思いが強くなりました。

 2件目は、栃木県の無農薬・無化学肥料栽培で多品目の野菜を生産・販売している、こちらも会社でした。ただ体質は長野県の企業とは違っていて、作付け・収穫・出荷をメインとする約10~20人弱の女性婦人グループが労働力として定着しており、主に男性社員は入社するも定着せず独立するか別の会社へ行くまでのひと時の研修生として働いていました。ハウスの管理、草刈り、マルチの片づけ、ジャガイモなどの一気に収穫できる野菜の収穫、肥料まきと農家直送という東京の契約店舗への直接配送など、業務は多岐に渡り落ち着いている雰囲気はなく、常に動き続けています。また社長がお客様も含めた直接の交流を非常に大切にしており、契約している100件以上のレストランの料理人やスタッフがそれぞれ毎週のように畑に手伝いに来ては飲み会をして帰る日々です。

 一週間でしたが、正直社員さんたちについて行くのがやっとでした。冬の時期で業務としては落ち着いていると言っていましたが、トラクターや草刈り機などの修理から害虫の虫取りなどやったことのないことばかりです。冬でも5時くらいから起きて、朝ご飯を食べる暇もなく畑へ直行、そのまま夜更けるまで作業をして帰ってきたら、たらふくビールが待っています。倒れるように布団に入ったらすぐ朝5時が来ます。何日目かのある朝社長に叩き起こされます。社員の一人が夜中に逃げた、と。
 この一週間研修を終えて、社長はもう来ないと思ったのでしょう。とどめを刺すかのようにこう言います。「自然相手の仕事するってこんなもんだ。こんだけやっても食っていけるのがやっと。夜逃げする奴も多いし、まぁここでは地獄見せるから」と。

 誇らしげに、しかもさらに「地獄を見せる」と言う。固定観念が揺るがされるのを感じ、自分の知らない世界が広がっていると思いました。農業という厳しい世界に入ろうとしているのに、自分はその厳しさも分からない。自分の仕事にしていけるのかここで試してみようと思ったのです。
 社長は、この研修に入った初日、初めて連れて行った畑で「畑に入らせて頂いていいですか?」と自分が確認すると、トロいとでも言いたげに無視し、作業の説明を始める人でした。

生き残れるかサバイバル体験が始まる

 卒業と同時に車の免許を取得し、栃木県へ。K農園へお世話になります。K農園は当時、多品目栽培野菜農家。畑だけで、7haあり、別に山を持っていて、そこで養鶏の準備を始めていました。契約店舗は主に東京の飲食店で、当時150件ほどあったと思います。会社で2トンの冷蔵車を保有し、週3回夜中走り回って卸先に納品していました。種をまき、育て、収穫し、出荷し、自分たちで届ける。現在、竹岡農園も直送事業をしていますが、これはK農園の影響が大きいです。

 4月の農繁期から行ったこともあり、冬よりもずっと殺伐として業務に追われていたと思います。社長自体が体育会系で命かけて必死にやろう!というようなノリでした。
 休みは当然ありません。しっかり寝れると良い方で、記憶にあるのは夜中まで畑で草引きとかして帰ったらビールを飲んで、潰れかけたら解放してもらい、「あと2時間は寝れる…」とか、「今日は4時間寝れるかな」とかの日々が記憶に残っています。3ヵ月経ったあたりから、東京への直送便を任されたので、朝から農作業をして、夕方に仮眠、夜8時くらいから次の日の昼まで東京中を配送し続けていました。
 恐いのは、寝ずに直送便を無事に終えて農園に帰ってくると、畑に直行します。畑で寝落ちしてもケガしないから、とさわやかに笑いながら言っている社長を今でも覚えています(笑)そんなこんなで24時間、36時間労働であった日は珍しくもありませんでした。

 まためちゃくちゃなのは労働時間だけではありません。内容も常識を超えていました。当時、K農園では鶏糞を肥料の一つとして使用していましたが、積載量350kgの軽トラに1トン以上山積みにして、社長命令で公道を走っていました。田舎道が非常に距離があるので、少しでも時間を短縮するため、1トン以上積まないと怒られます。
 入っていく農道は崩れかけの場所や半端ないぬかるみも多く、自分が居た期間で軽トラを預けられた研修生はだいたい道から川や畑に横転し、そのたびに社長がトラクターやユンボを持ってきてひっぱりあげていました。

 畑の場所さえよくわからない入って1週間くらいの自分が、来られたお客様の畑の案内をさせて頂き、色々と質問されながら野菜についてというより人との接し方を覚えていきました。ちなみに、社長から野菜や土づくりについて教えて頂いたことはありません。自分で知識や技術は盗みに来いというスタンスでした。
 そして、よく怒られました。与えられた業務で褒められたことは無かったと思います。足りないところを指摘して頂き、言葉責めも半端なかったですが、手や足、さらには持っていたハンマーなどで叩かれたこともあります。そうです。完全に犯罪ですね。よく死ななかったと思います。

 研修生の大半はこの精神的な重圧によって夜逃げ・昼逃げをしていきました。それまで300人くらい来た研修生の大半は1週間から1か月で逃げていく理由もよく分かります。

4か月目に過労で事故を起こす

 教えて頂くことも少なく、見様見真似で与えられたミッションを必死にこなしていく。そうしていく中で、初めてのことに対する不安や戸惑いを感じなくなってきました。やり方があってるか間違ってるかを聞いても、結果が伴わなければ拳が飛んできます。その時に、「社長がこう言った…」と言おうものなら、馬乗りで拳パターンです。
 なので、何かこのままではまずいと思ったら、自分で調べて、自分で修正して結果が最悪の事態にならないように考えるしかありません。そうして、文字通り叩きあげられていきます。丹波で独立して、初めてのことに突き進めたのは、K農園の研修でやったことないことが当たり前だったからです。

 そんな日々も3ヵ月を超えるあたりから体力的に限界を迎え始めます。社長には「気合いが足んねーんだよ」と叱られていたので、自分の鍛え方が甘かったのかもしれませんが、いずれにせよ寝れない日々、怒られる日々で緊張感の糸が切れ始めます。
 4ヵ月経った頃、直送便にも慣れてきて畑の業務がさらに増えてきた頃、暑くてぼーっとして野菜の集荷の運転中に意識が飛びます。覚えているのは、ドアを切っている音、救急車の中で社長が「竹岡!竹岡!」と叫んでいる声でした。

 命があって奇跡だったと思います。ワゴンアールで、10トントラックに60㎞で突っ込んでいき、後続車から突き上げられ、神社の駐車場で止まりました。フロントに強く頭を打ち付け、ハンドルで右半身を複雑骨折、アバラを数本折られ肺に損傷。アバラが刺さった肺はICUでなかなか膨らまなかったそうです。
 ありがたかったのは、トラック運転手はほぼ無傷、後続車の方もケガもなく、ご迷惑をおかけしましたが、保険で対応して頂けました。ワゴンアールは、たまたま先輩の車を乗っていて、きちんと任意保険をかけて頂いてたお陰です。

 ICUでなんとか骨を固定し、肺を膨らませ、命を繋ぎとめて頂きました。1週間後一般病棟へ移動。死んでもおかしくない事故のケガということで、1週間は安静。誰にも、何者にも阻まれない病院での天国暮らしのことは至福の思い出です。眠るのがこんなに幸せなことなのか、と気づけたのもK農園のお陰ですね。

 1週間の安静の後、少しずつでいいからと歩いたり、腕を曲げたりするリハビリが始まりました。特に右腕の複雑骨折がひどく、ボルト4本で繋がってはいるものの筋肉の付き方も事故以前とは違っていました。リハビリの先生が、もしかしたら後遺症が残る傷で、まだ相当痛むだろうし、リハビリを続けても腕を曲げきることが出来ないかもしれないと優しく伝えてくれた10分後に完全に腕を曲げきっていました。そして、腕を曲げているところに、たまたま社長が見舞いに来たのです。

以下、未完成。

研修を通して、
・何が起きても乗り越える(何とかする)しかないという意識
・自分たちで0から作るのが百姓
・人に対して絶対にしてはいけないことを教わる
・努力の仕方を考え直すきっかけになる

以上のことを学び、丹波の地で無農薬・無化学肥料の野菜生産事業を始めます。

③無一文、無経験、無免許、農業のきっかけをくれた笛路村で独立。

2010年 独立してまず野菜の発送事業を開始
2011年 障がい者と農作業をする「ナチュラルタイム」を開始

最初は、アルバイトをメインで副業として野菜生産をしていたが、初めて野菜を売ったお客様に「野菜のことは全て竹岡さんにお任せしている」と言われて、半分農業という形では申し訳ないという気持ちで、農業一本で生計を立てることを決める。

専業農家になる上で意識したのは以下の点。
・ランニングコストを徹底的に抑える
・開墾
・既存コミュニティとの共生

生産事業を開始すると、ほぼ同時に里山や田畑を人の居場所として提供する居場所事業を始める。(障がい者と農作業をするナチュラルタイム、里山の休耕田を開墾する物乞いキャンプなど)

その後、
生産事業は年々生産面積を拡大。初め1.5反だった管理農地は、笛路村で約2ha。現在は、笛路村の外で拠点を開墾している。
居場所事業は、現在NPOのメイン事業となっている里山ようちえんふえっこだけでなく、
障がい者と里山で遊ぶ「ナチュラルキャンプ」、
企業研修を受け入れる「里山研修」、
笛路村のロケーションと飲食店のコラボレーションイベント「里山企画」(里山フレンチ、里山牡丹、里山珈琲など)、
独立後5年間ほどお世話になった開墾イベント「物乞いキャンプ」、
など里山などの竹岡農園の管理地を主に使用した企画が年々増えている。

農を軸とした、小さな農園の活動内容

「自然栽培の野菜生産」

 無農薬・無化学肥料栽培という方法での野菜生産は、丹波に来る以前の研修先の農家さんのこだわりでした。ですので、こだわって無農薬・無化学肥料栽培を始めたのではなく、私にとって野菜を農薬・化学肥料を使用せず栽培することは“当たり前”として続けてきています。

 ただし、これまで慣行農法が行ってきた農薬・化学肥料を使用しないという栽培は自然の力で放置していれば良い野菜が育つという簡単ものではありません。農薬・化学肥料を使用する農家が多いのは、異常気象での生育不良や害虫の発生、病気などによりそれを使うことで作物を安定して育ててきたという背景があります。
 ですので、自然の力だけで良い野菜を育てるにはそれなりの工夫と技術が必要でした。そうした一つ一つの工夫を「こだわり」と言って頂くお客様もおられます。

 大きく我々の行っている栽培方法を説明すると、自然の力、土の力を引き出して野菜を育てています。そのために、自然界にあるものを使い、自然のペースに合わせ、余計なこと・過剰なこと・無理なことをしない選択をしています。

 我々百姓が自然な暮らしを志し、自然界に育られている感性や体感で取捨選択した自然な野菜の栽培方法。そうした考え方の中で育ってきた野菜を通じて、皆さんの心に少しでも自然の息吹が入ることを祈って栽培しています。

「酵素温熱風呂」

 地元の廃棄される米ぬかを利用し、地下水・海藻や糖蜜など食べられる資材・活性炭などと混ぜ合わせて、純水に発酵させた酵素風呂を運営しています。

 無農薬・無化学肥料での栽培を丹波で始めて3年ほど経った頃、ようやく害虫にめちゃくちゃにされるということもなくなり始め、自分の思う美味しい野菜に近づいてきたときに、三木で酵素肥料の販売、酵素風呂を運営していた竹内商会さんと出会います。
 試しに使ってみろと渡された酵素肥料を畑で使用したところ、野菜の反応を見ていると有機肥料が効いている感じと全く違う印象を受けました。栄養を与えて元気になるのではなく、野菜そのもののエネルギーが高まっているような感じです。面白くなって、1平方あたり一般では考えられないくらいの量を入れて土を作って白菜を育ててみました。普通の有機肥料であれば土壌バランスが崩れて病気にでもなってしまう量です。
 結果は、白菜の質量こそ増えましたが、何の病気にもならず、栄養を与えすぎた時に起こる嫌な濃すぎる葉の色にもならず自然の色に近く、質量が重いのに、根っこが強くなっているのか全く本体が折れたり、こけたりしません。当時のお客様は、この時に育てた白菜を今でも「幻の白菜」と呼んで頂いています。

 こうした経緯で米ぬか酵素を使用し、畑の中にいる微生物の働きでもともと土壌中にある酵素を活性化することで野菜生産は安定してきました。

 ただ、この米ぬか酵素の生産は非常に時間と手間がかかることで、購入して野菜作りをすると非常に高額な野菜になってしまいます。なにより、自給を目指している農園の方針と合いません。そうしたことを竹内商会の竹内さんに相談すると、自分で酵素肥料を作ったらいいやん、と。
 ただし、この酵素肥料を作るためには、一次発酵で酵素風呂になるくらいの純粋な酵素を生産していく必要があるとのことでした。

 当時、酵素風呂がどんなお風呂なのか知りもしなかったのですが、嫁が環境の変化で非常に体調を患っており、一緒に畑に出るのもしんどい状況だったこともあって、試しに竹内さんの酵素風呂に入ることになります。入ってみると、めちゃくちゃ気持ちよくて、他の温泉施設と根本的に違うことがわかりました。しかも、嫁の体調も明らかに楽になり、これはすごいということで酵素風呂を作ります。

 自分で酵素風呂を運営し始めてからは、毎週嫁さんと入っていました。3か月もしない内に嫁さんの平熱は35℃台から37℃へ。平熱上がったことで、免疫力も上がり、非常にきつかった花粉症と、生理痛が全くと言っていいほど無くなりました。体調が良くなった嫁さんは今では毎日畑で里山ようちえんをしていますし、子どもも授かりました。

 また私の方も、大きな体の変化が訪れます。数年前に死にかける大事故をしていて、複雑骨折をしていた箇所が、骨がひっついてからも力が入りずらくそのまま何年も農作業をしていました。痛みはなかったのですが、酵素風呂を運営し始めてからまた急に痛み出すようになりました。酵素風呂に入ると腕がもげるような痛みです。このまま痛みが続くと、酵素風呂のメンテナンスも出来なくなるなと思い始めて1週間ほど経ったとき突如痛みが消えました。
 それ以降、力が入りずらかった腕が事故以前のように思いっきり力を入れられるようになりました。おそらく…ですが、これは勝手な個人の見解ですが、血流が思いっきり周り、身体の免疫細胞が復活したことにより、流れの悪かった骨折の箇所の毛細血管が流れ始めたのかなと思っています。

 夫婦揃って酵素風呂に入って大きな体調の変化を感じたことで、他にも求めている方に共有したいと思い、公衆浴場の許可を取得します。これ以降、事業として小さな酵素風呂を運営しています。

「農家民宿 花乃家」

「里山レストラン」

「NPO法人 丹のたね」

「里山ようちえん ふえっこ」

株式会社 竹岡農園

〒669-3131
兵庫県丹波市山南町谷川2787-1

農園定休日:月曜日
里山ようちえん定休日:土日

事業案内

自然栽培(無農薬・無化学肥料栽培)野菜の生産販売
野菜セットの直送事業
農業体験
農家民宿 花乃家
酵素風呂 糠天国
里山レストラン
里山ようちえん ふえっこ(関連事業体 NPO法人丹のたね事業)

・その他、各種イベント

※竹岡農園は完全ご予約制で商品販売、サービス事業を行っております。
事前にお電話やメールなどでご連絡頂いてからお越し下さいますようよろしくお願い致します。

お問い合わせはこちら

竹岡農園の地図